【承認欲求は悪なのか?】YouTubeとブログに向き合う私の本音

ひとり言

こんにちは、アラカンぼっちトラベラーのヴィオラです。
今回は、私自身がYouTubeやブログを続ける中で
「承認欲求が強いのでは?」と悩んだ体験を正直に綴ります。

読み終えたとき、承認欲求を無理に消そうとするのではなく
「自分らしい形で受け入れ、活かしていくヒント」を
感じてもらえたら嬉しいです。

同世代の方が同じ悩みを抱いたときに、
「ああ、こういう向き合い方もあるんだ」と
少し心が軽くなれたら・・・
そんな思いを込めました。

YouTubeとブログが私に突きつけてきたもの

YouTubeに動画を投稿し、
ブログを書いて公開する・・・
それは一見「自己表現の場」です。
けれど実際には、私の心の奥にある
「誰かに見てほしい」
「反応が欲しい」という欲求が、
日々突きつけられる場でもあります。

動画をアップして数時間。
再生数が思ったより伸びていないと、心がざわつく。

ブログの記事も、
アクセス数を何度もチェックして
「誰かが読んでくれているだろうか」と不安になる。

そうした自分の姿に気づいた時、
私はふと「もしかして承認欲求に振り回されているのでは?」と
怖くなるのです。

承認欲求を否定したくなる瞬間

正直に言えば、
承認欲求を抱えている自分を
「格好悪い」と思う瞬間があります。

「もっと淡々と、自分の楽しみのために発信できたらいいのに」と。

SNSで華やかに活動する人と比べて落ち込んだり、
他人の評価を気にして編集に時間をかけすぎたり。

「本当にやりたいことは何だろう?」
「私は数字のためにやっているの?」

と問いかけてしまう夜もありました。

承認欲求が悪者に思えて、
まるで自分自身を責めるような気持ちになるのです。

それでも承認欲求があるから続けられる

けれど、立ち止まって考えてみると・・・
承認欲求があるからこそ、
私はここまで続けてこられたのも事実です。

動画を見て嬉しいコメントをいただいた時。
ブログの記事を見た人から、
直接、「役に立った」「継続していることに尊敬する」
という言葉をもらった時。

その一言で、
眠い目をこすって編集した時間も、
何度も撮り直したシーンも、
全部報われるように感じます。

承認欲求は確かに苦しみを生むこともあるけれど、
同時に大きな喜びをもたらしてくれる存在なのです。

承認欲求との苦しい共存

問題は「どう共存するか」だと気づきました。

たとえば、再生数やアクセスが伸びなかった日は、
落ち込みすぎて「もうやめようかな」と思うこともあります。
けれど数日経って、また旅に出てカメラを手にしている自分がいる。

「承認欲求に振り回されている」と思う一方で、
「承認欲求があるからこそ挑戦できている」とも言える。

この矛盾の中で揺れながら、
私は毎回少しずつ「承認欲求との距離感」を
学んでいることに気づきました。

私が試している承認欲求との付き合い方

完全に承認欲求を消すことはできません。
だからこそ、私は次のように意識しています。

小さな成功を自分で褒める
「今日は字幕を入れるのがスムーズだった」
「撮影が楽しくできた」など、
自分だけの承認ポイントを見つける。

比べる対象を「過去の自分」にする

他人ではなく、
「半年前の自分と比べてどう成長したか」を
意識する。

笑いに変える

「動画の再生数が10回?そのうち8回は私かもしれない!」
とユーモアを混ぜて受け止める。
深刻さが和らぐだけで、心の余裕が生まれます。

まとめ―承認欲求を敵にしない

私は今でも「承認欲求が強いのでは?」と
自分を責めそうになる時があります。

けれど振り返ってみれば、
その欲求があったからこそ挑戦でき、
成長でき、誰かとつながることができたのも事実。

承認欲求は、敵ではなく人生のパートナーのようなもの。
ときに厄介で、ときに心強い。
そんな存在と上手につき合っていくことが、
これからも発信を続けていくための鍵になるのだと
ここ最近感じています。

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